高校2年生(1986年12月)から大学2年生(1991年2月)にかけて、世の中は好景気だったらしく、後にバブル景気と呼ばれた。でも、親からの仕送りで生活する学生にとっては、世の景気など無関係。それまでの人生の中で、最も貧乏な生活を送っていた。ただ、バイトをしていたクラスメイトの中には、時給1,000円以下はバイトじゃないと豪語する者もいたので、景気はよかったんだと思う。大学3年生になった頃には、マスコミで盛んにバブルが弾けたと報道されていたが、バブルっていったい何のことだと、クラスメイトとよく話したものだ。
2歳上の先輩くらいまでが、まさにバブル就職組で、就活成金だとか、学校推薦が内定のチケットとか、そんな夢みたいな話しか聞かされなかった。しかし、自分たちのときはそうじゃないというのは、就職活動を始める前から、薄々は感じていた。
表向きは就職協定が幅を利かせていたため、内定の解禁日は4年生の10月だったが、明治の場合は4年生になると同時に就職活動が開始された。真相は定かではないが、東大、早慶、MARCHの順に決まっていくので、東大は3年生の終わりには決まっていて、早慶はGW前には決まっているとか、そんな噂が絶えなかった。
明治の理系の場合、大手企業の面接を受けるには、学校推薦が必要であった。しかも、学校推薦は1名あたり1社しか割り当てられず、面接を受けるための権利に過ぎなかったため、内定の保証はなかった。定員を超えた企業に対しては、3年生までの成績順で割当が決まるため、大学側はなるべく多くの学生に学校推薦が行き渡るようにと、事前に2-3回のアンケートを取り、各自の成績で学校推薦が取れそうなところを選びなさいとも受け取れるような誘導をしていた。
成績が振るわない学生は、最初から学校推薦のレースには参戦せず、中小企業に絞って独自に就職活動をしていた。仮に学校推薦をもらえたとしても、面接に落ちればそれまで。その時点で、大手企業の就職は厳しいと言わざるを得なかった。そんな制約の多い就職活動であった。
4月から5月にかけて、就職ガイダンスと会社説明会が行なわれた。会社説明会では、各企業の採用担当がわざわざ大学に来てくれて、各社の紹介をしてくれた。そこでは会社見学の日程を教えられ、興味を持った会社を見学するという仕組みだった。
業種としては2つ考えていた。1つ目は、通信工学を専攻していたので通信業。2つ目は、金融業界が名を馳せたバブル景気へのアンチテーゼから、モノを作る仕事がしたいと思っていたので製造業。しかし、具体的にどういう仕事をするのかが思い描けず、会社選びも難航した。NTTやホンダを始め、いくつもの会社説明会に参加した後、松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)、パイオニア、ビクターを見学しに行ったが、どうも心に残らない。
そんな時、SEという仕事に関する就職ガイダンスのことを知り、軽い気持ちで参加した。今思えば、これが運命の出会いであった。SEとプログラマの違いの説明を受け、SEはシステムを作る仕事だと知る。それまでモノ作りにこだわっていたが、システムを作るのもモノ作りではないかと気付き、急にSEという職業に惹かれて行った。
そして、その数日後に日本IBMの会社説明会があったので、急遽、参加したのだが、それが衝撃的な内容であった。他社の会社説明会は、OBが1-3人程度でやってきて、会社の話を淡々とするだけだったが、正直、どの会社のOBもぱっとした人がいなかった。ところが、日本IBMからは10人近いOBがやってきて、1人が説明してる横から「ここはこういう風に説明した方がいいんじゃない?」と意見したり、その場でいきなり「営業/SE系と研究系は分けて説明した方がわかりやすいよね」とか「机は向き合わせた方がいいよね」とか、思い思いに提案し続けるのだ。初めて、この人たちはすごいと思えるOBに出会った瞬間である。
俄然、日本IBMという会社と、そこで働く人に興味を持ち、営業/SE系の拠点である箱崎事業所と(当時の)研究系の拠点である大和事業所の、両方の会社見学に参加した。憧れの先輩たちに囲まれて仕事をしたいという想いは高まる一方である。この会社しかないという感じになり、会社説明会の後で行なわれた懇親会の帰り、明治OBの人事担当者の方と電車が一緒になった際、自分の想いを話した。そのとき、「自分は専攻した通信工学以外にも、政治や経済にも興味があり、専門バカじゃないつもりだが、学校の成績だけで学校推薦の割当が決まるのは、本当の自分を見てもらえてなくて残念だ」と愚痴を言ってしまった。すると、「君は、仕事ができないのに、これは本当の自分じゃないと言い訳してるのと同じだし、それじゃ(面接で)落ちるよ」と言われ、目が覚める思いであった。本気でこれはまずいと思い、軌道修正する方法はないか、ヒントを聞き出し、それから面接に向け、必死に考えた。
面接日はどの大手企業よりも早く、学校推薦が決まるはるか前の、6月上旬であった。川崎事業所で行なわれた面接では、面接官の顔ぶれを見て驚いた。3名とも、会社見学でお会いしたことのある方だったのだ。
最初の質問は、何故この会社を志望したのか。「SEという仕事に興味を持ったのがきっかけですが、何故、SEになりたいのかから説明させてください。」と断ってから、自分の考えを話し始めた。モノ作りに対する考え、会社見学で出会った先輩の話、日本IBMに対して抱いた印象。そんな話を必死に、ひとりで20分間も話し続けた。一通りの説明を終えた後、面接官に「あまりにお話が上手で聞き入ってしまいました」と言われたのを真に受けたのは、若気の至りであった。
次の質問は、この会社を通じて実現したい夢は何か。これはまったく考えていなかったが、少し間を置いた後、「自分で作ったシステムを、自分の父親に見せたいです。これが、俺の作ったシステムだと、見せてやりたいです。」という言葉が自然と出た。
その後は、勤務地に対する希望や、たわいのない質疑応答が続き、面接は終わった。実に清々しい気分であった。これで落とされたら、自分を受け入れてくれる会社はこの世にないと思えるほど、自分のすべてを出せた面接だった。
結果は、合格であった。日本IBMから大学に対して、学校推薦を発行してほしいという依頼があり、その後行なわれた学校推薦の選考にも受かり、事実上の内定をもらえた。この時の喜びは、今でも忘れられない。憧れの先輩たちの仲間入りができるのが、本当に嬉しかった。
ただ、内定という言葉は一度も使われておらず、この先に面接は予定されていませんという情報しかなかったので、夏頃に不安のあまり、日本IBMに問合せをしたりした。これは夢なんじゃないかとか、大切な面接や試験があるのに、参加してないがために不合格になるんじゃないかとか、いろんなことを不安に思ったものだ。
内定の解禁日である10月1日が内定式であった。それまで面接1回だけだったので、その場で英語の試験を受けたが、内定結果に影響はなかった。
2月頃にもらった配属通知に書かれていた配属先は、開発製造本部 製造統轄本部 ナショナル・ランゲージ・サポート。何をする部署なんだか、さっぱりわからない。一般教養課程のクラスメイトにも日本IBMの内定者がいたが、そいつも開発製造本部 製造統轄本部までは同じ。2人で何するんだろうなと言いながら、入社式を迎えた。
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