新人研修の期間も、研修と研修の合間は配属先に戻り、OJTと称して雑用をこなすことはあった。しかし、自らが担当する業務として仕事を与えられたのは、11ヶ月に及ぶ長い新人研修を終えた1994年3月であった。
配属先であるナショナル・ランゲージ・サポート(NLS)とは、ローカライズ部門のことだった。IBMで開発する製品は、開発元がどこの国であろうと、必ず英語で開発をし、それを各国のTC(トランスレーション・センター)が母国語に翻訳するのが通例であった。つまり、日本のTCがNLSだったのだ。
当時のIBMのマニュアルは、すべてメインフレームで処理する仕組みになっていた。XMLやSGMLの先祖であるBookmasterという言語で書かれており、同じソースファイルから紙のマニュアル(ハードコピー)とCD-ROMマニュアル(ソフトコピー)を生成できるようになっていた。CD-ROMがほとんど普及していない頃であり、今思えば先進的とも言えるが、Macで動くDTPが台頭し始めた頃でもあり、大学のゼミでMacを使っていた自分には、メインフレームを使っている時点でえらく古臭く感じた。
そんな中、唯一、AIX(IBMのUNIX)だけはAIXで動くDTPソフト(Interleaf)で処理する仕組みが試験的に始められていた。ある女性の先輩が担当者として孤軍奮闘していたところに、自分も参加することになった。何彼に付けMacの先進性を声高々にアピールし、暗にIBMの旧態依然とした仕組みを批判する生意気な新人に対する、所属長の粋な計らいでもあった。
DTPソフトの一般的な使い方は知識としては備えていたので、Interleafの使い方は比較的すんなりと覚えられた。しかし、Interleafで作られたマニュアルの中身を英語から日本語に置き換えるプロセスを考えるのは、なかなかの難題であった。当時の翻訳ツールはInterleafには未対応で、Interleafのファイルの中には表面的には見えないハイパーリンクの情報(CD-ROMマニュアルにした際のリンク元とリンク先の情報)も含まれていたので、それらを壊さずに中身の文章だけを英語から日本語に置き換える必要がある。
技術系の部署の先輩方は、ソースファイルの中身を解析して、ハイパーリンクの情報は残したまま、文章だけを英語から日本語に置き換える方法を推していた。しかし、自分はアプリケーションが内部的に持っている情報を勝手に書き換えるべきではないという信念の下、文章だけをテキストで抽出して翻訳し、Interleafの通常操作でハイパーリンクの情報を埋め込んで再現する方法を提案した。今の自分なら選択しないであろう、素人発想の案である。
まずはリーダーである女性の先輩に話し、所属長にプレゼンしたところ、あっさりと「いいんじゃない」という返事をもらえた。「えっ、これでいいんですか?」と尋ねたら、「君たちがいいと思う方法ならいいんだ」と言われたのを、今でもよく覚えている。それは自分の信じた方法を、責任を持って進めなさいということでもあった。この案を採用することに対し、技術系の先輩方からいろいろと言われたようだが、新人だが彼の考えには一理あると、所属長が守ってくれた。これに限らず、新人の突拍子もない発想に蓋をすることもなく、自由に泳がせてくれた当時の所属長には、今でも感謝している。
日本語化のプロセスも決まり、いよいよプロジェクトが開始という頃になって、リーダーである女性の先輩が妊娠し、つわりがひどくて出社できなくなってしまった。仕事を始めて4ヶ月目の新人が、いきなり、実作業を担当する派遣社員2名と外注先1社を引っ張る立場になってしまった。案件の中身を把握していたのは、先輩と自分の2人だけだったので、質問する相手もいない状態である。
とにかく、無我夢中で対応したのは覚えている。翻訳系のところは他の女性の先輩が担当してくださったが、あとはどうやって対応したのか、全く覚えていない。でも、何度か延期になったこともあり、数ヶ月後には世の中に製品として出荷されていた。今思えば、影でいろんな人々に支えられた結果だと思う。
同期の連中は、現場のSEとしてお客様のシステム構築のプロジェクトに携わる中、ひとり全く異なる状況に置かれた訳だが、大抵のことには動じない度胸だけはついた気がした。
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