大学入学と同時に上京し、東京での独り暮らしが始まった。以来、ずっと都民である。早いもので、人生の半分以上を都民として過ごしたことになる。
やはり言葉では苦労した。地方出身者は誰もが同じだと思うが、日常生活で自然に東京弁を話せるようになるまで、少し時間がかかった。ただ、高校時代に放送部にいたため、NHK標準語のアクセントは身近なものであり、反射的に出てしまう言葉以外は東京弁で話せたので、クラスメイトは東京出身だと勘違いする人が多かった。入学前は全国から学生が集まっているだろうと思っていたが、実際には7割が首都圏の出身者で、その点は少し誤算だった。
また、童顔だったせいか、よく現役生と間違われた。浪人と現役は半々くらいだったと思う。そして、何故かテニスしてるでしょとよく言われた。ちなみに、一度も経験はないのだが、そういう雰囲気があったらしい。
明治の新入生は、本当に挫折感や劣等感で満ち溢れていた。浪人か現役かを問わず、一般入試での入学者は、早稲田を志望したのに明治にしか合格できなかった連中ばかりだった。もちろん、自分もそのひとりだ。附属校からの内部進学者と推薦入学で入った競争を知らない現役生以外は、全員が競争に敗れた連中だった。本気で仮面浪人をしようかと企む者さえいた。
しかし、最初の夏休みが始まる前には、みんな愛校心が芽生え、すっかり明治に溶け込んでいた。飲み会でもカラオケでも、最後に必ず校歌を歌い、ひどいときは校歌を歌いながら夜道を練り歩くことすらあった。でも、愛校心の中身は、ここがいいという前向きな気持ちではなく、やっぱり自分たちはこの程度だから、そんな自分たちには明治くらいでちょうどいいんだという、どこか諦めた気持ちだった。
実際、どこに行っても「明治(にいる自分たち)は馬鹿だから」と自虐的に話すことが多かった。ラグビーの戦術についても「横の早稲田」と「縦の明治」はよく比較されるが、「早稲田は頭がいいからボールを横に振れるんだけど、明治は馬鹿だからボール持ったら前に進むことしかできないんだよな」なんて話をよくしてた。そんなこともあり、ラグビー早明戦の勝敗の行方は一番の関心事だった。馬鹿が賢者に勝つ、唯一の場だったのだ。当時は明治の黄金期だったので、早稲田に負けた記憶はほとんどないが、この10年の低迷を見てると、ついに勝てるものがなくなったのかという寂しい気持ちになる。
理工学部の一般教養課程のクラスは第二外国語を基準に分けられており、クラスメイトは8学科(電気工学科、電子通信工学科、機械工学科、建築工学科、工業化学科、情報科学科、数学科、物理学科)から集まっていたため、幅広い友人と知り合いになれたのはよかった。ほとんど男子校のノリだったが、とにかく面白いやつばっかりで、学校に行くのは楽しかった。卒業後はなかなか会う機会がないが、未だに年賀状のやり取りは続いている。彼らも一生の宝物である。
そもそも、通信工学を学びたくて入学したのに、一般教養課程は直接的に関係ない授業が多く、もどかしさがあったが、法学や政治学のような社会科学系の授業は楽しかった。一方、語学系は非常に苦労した。
3年生から専門課程になったが、なんとか第一希望の北見ゼミ(デジタル通信工学)に入ることができた。定員を超えた場合は、2年生までの成績(優38, 良36, 可15)で当落が決まってしまうのだが、真ん中くらいに位置していたので、やる気はあったが、当落線上で危なかった。実は、北見教授はこの年(1991年)にNTTから教授に転身された方で、新設されたばかりのゼミだった。新しい組織が好きな自分にもぴったりであった。
3年生のゼミは授業と発表が中心であったが、本当に楽しかった。最初のゼミで与えられた課題に対しては、固定電話網について図書館で丹念に調べ、ひとりだけプレゼンをした。逆に言うと、自分以外に明確な理由があってこのゼミを選んだ人はいなかったので、その後も他のメンバーとはゼミに対する温度差がかなりあった。
4年生になると、卒業に必要な単位はほとんど取得済みだったので、ほぼすべてがゼミでの卒論研究であった。簡単に言うと、ブロードバンド時代を見据えた新たな伝送方式の研究を行なっていた。当時(1992年)はインターネットの存在も知らず、ISDNすら珍しい時代である。ゼミの一期生だったため、ゼミ室にはMacが3台とホワイトボードがあるだけ。これを12名で使うので、アイディアが浮かんですぐに検証したくても、誰かがMacを使っていたらおしまい。秋には両親に頼み込んでMacを買ってもらい、計算に使うMathematicaは教授からこっそりと借り、自宅で24時間態勢で研究に打ち込めるようにした。実際、夜中の3時に急にひらめいて、Macで計算を始めることもあった。
卒論は同じチームの4名で分担して執筆することになっていたが、自分が中心になって研究を進めたという自負もあり、提出用の論文とは別に、自分ですべての範囲を執筆し、今でも大切に保管している。研究自体は、志半ばというところで時間切れになってしまったため、研究を続けたいという想いはあったが、大学院への進学はまったく考えていなかった。1日も早く社会人になり、自分の力を試したいという想いでいっぱいだった。
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