目標校には到達できなかったものの、志望校に入学でき、晴れ晴れとした気持ちで春を迎えることができた。自分の過去を知る者は誰一人としておらず、素の自分を出せるのも嬉しかった。校訓の1つが自主自律で、校則は必要最低限のものしかなく、非常に自由な雰囲気が自分にはあっていた。広島城の北側に隣接した立地条件も抜群だった。しかし、すぐに思い描いていた学校とは異なることに気付いたのだ。
数学の授業で、どう考えても中学の時に習ったことを教えるのだ。これはおかしいと思い、周りの人に聞いても誰もが習っていないと言う。そこで初めて気付いた。自分は通っていた塾で、既に高校の範囲まで習っていたのだ。英語も同様だ。確かに、塾の授業では「これは国立と私立(の試験)では使っていいけど、公立(の試験)はダメ」という線引きを何度も教えられた。つまり、これは高校で習う範囲だよというサインだったのだ。
また、自分が目標としてきたはずの学力に遠く及ばない生徒が大半だという事実にも気付いた。よく考えてみたら当たり前の話である。難関校を狙って競争していた人は、定員の5%しかいないのである。学校そのものが難関校なのではなく、この5%枠の争奪戦が難関だっただけなのだ。残りの95%の人は、普通の公立高校に入学したのだ。要するに、自分はわざわざ苦労して普通の公立高校に入学していたのだ。今思えば、何故、塾の先生はこのカラクリを教えてくれなかったのだろうかと不思議でならない。
とにかく、授業がつまらなかった。英語と数学は、最初の1年間、ずっと習ったことばかりやるのである。入学早々、母にはよく愚痴を言ったものだ。でも、人間、堕落するのも早い。あっという間に周りのペースに慣れ、勉強しない習慣がついてしまった。この頃から得手不得手のばらつきが大きくなり、全体的な学力も落ちて行った。
母校の名誉のために補足しておくが、現在は単独選抜になり、学区を広島市全域に広げて学区外の定員も30%に増やした上、近代的な新校舎になったおかげで、広島市近郊も含めて優秀な生徒が集まるようになった。東大と京大への進学者も、数は少ないながらもコンスタントに出せるようになり、県内公立高校ではトップの進学実績を誇るようになった。自分の時代と比べると、隔世の感がある。
部活動は放送部にした。中学の頃からオーディオが好きで、プロの放送機材を使ってみたいというのが一番の理由であった。自分が5%枠で入学したと知られると、最初は過剰に反応された。同級生の女子には名前で呼ばれず、5%と呼ばれることもあった。彼女たちに名前で呼ばれる場合も、未だに「さん」付けで呼ばれる。それくらい、取っ付きにくい存在だったのかもしれない。
でも、放送部のときの同級生は、大親友であり、一生の宝だ。部活動を行なったのはたった2年半だったが、密度が濃く、まさに青春そのものだった。互いに家族を持ったせいもあり、ここ数年は会う機会がなく、連絡も滞りがちだが、彼らとの出会いも彼らの存在も、自分にとって貴重な財産である。
3年生の時点では、まだどんな大学があるのかも、あまり把握できていなかった気がする。国立大学を受験できるほどオールマイティではないので、私立大学に絞って探したが、関関同立だと電気電子系のいい学科が見付からず、どういうわけか東京理科大学に興味を持った。指定校推薦枠があったが、そんなに学校の成績がいいわけでもなかったので、もちろん校内選考で敗れた。
3年生になってすぐに大手予備校に通い始めたが、学力の低下は半端じゃなかった。自分なりに勉強はしたが、高校受験のときのようながむしゃらさもなく、最初から諦めていたような感じだった。滑り止めも受けず、本命のみの受験で見事に玉砕。半ば予定通りという感じで、浪人生活に入った。
投稿情報: |