話は前後するが、新人研修を終えた直後の1994年2月に、会社人生における転機とも言える出来事が起きていた。Webとの出会いである。
SEスクールを終え、その体験記をまとめている頃のことである。同じ事業所に勤める日系ブラジル人の同期から、WWW(World Wide Web)を見せてあげると言われ、彼の部署に見に行った。当時のブラウザはUNIXで動くMosaicのベータ版しかなく、日本語表示もできなかった時代だ。Webの存在は雑誌の記事で何となく知っていたが、本物を見たのは初めてであった。クリックするだけで、世界中に点在するサーバを自由に行き来し、さまざまな情報を見ることができるのが、とにかく衝撃的であった。
自分の席に戻り、すぐさま所属長に対して、「CD-ROMマニュアルではなく、近い将来、必ずWebでマニュアルを読む時代がくる」と一方的に興奮気味の長文メールを送ったが、届いた返信には「確かにそうだろうけど、5年か10年くらい先の話だろうね」と書かれていた。
しかし、時代の流れは予想よりも早かった。1994年秋に、当時、会社のWebサイトを持っていなかった日本IBMが、ある社員の報告をきっかけに、会社の公式サイトを立ち上げる社長直轄プロジェクトを発足させ、全社から各コンテンツを募ったのだ。ローカライズ部門であるNLSにも声がかかり、自分に白羽の矢が刺さった。所属長が半年前に送ったメールを覚えていてくれたのだ。
NLSからは、試験的に日本語化したマニュアルを2冊HTML化し、公式サイトに掲載した。オーサリングツールもなければ、HTMLの書き方の情報もほとんどない時代である。Webサーバの構築も英語の情報しかなく、ブラウザも細工を施さないと日本語を表示できないような時代だ。まさに時代の最先端だった。
その後も、月に2冊ずつ掲載マニュアルを増やすことになり、プロジェクト終了後も継続してWebの仕事にかかわるようになった。会社全体としても、情報を掲載したいと手を挙げる部署が増えてきたものの、社外も含めコンテンツ制作ができる人材がほとんどいない状態で、Webサーバを管理していた部署が「NLSにコンテンツを作れる人がいる」と自分のことを紹介してくれるようになった。
こうして、他部門からのコンテンツ制作を請け負うようになり、結局、最初の仕事以外、本業であるローカライズの仕事にかかわることはなかった。入社4年目までNLSにいたが、専任でWebコンテンツ制作を行なえたのは、非常に恵まれた環境だったとしか言いようがない。その間は、社内のさまざまな部署と関わりを持つことができ、非常によい勉強になった。
特に某国立大学と共同で行なった障害者向けのさまざまな機器を紹介するカタログのWeb化のプロジェクトでは、社外の人ともつながりを持てたし、バリアフリーという考え方に出会うこともできた。そして、ThinkPadのデザインを担当したデザインセンターの人たちとも一緒に仕事をすることができ、プロのデザイナーの仕事ぶりを間近に見れたのも、非常に刺激になった。
また、ある製品のページを担当したときは、自分なりの表現を自由に試すことができ、それを受け入れてもらえたのが非常に心地よかった。今のようにPhotoshopがメジャーではない頃に、独学で使い方を学び、当時のWebコンテンツの表現力の向上と歩調を合わせるように、自分の表現力が向上していった。まさに、天職に巡り会えたと思えるほど、Webの仕事にのめり込んでいった。
その一方で、心の葛藤もあった。同期の連中はSEとして確実に成長しており、早い人は入社3年目で小さな案件のPMをこなすほどであった。Webの仕事は楽しいとは言え、自分との差が開いていく一方のような気がした。それに、プロのデザイナーでもない自分が、ずっとこの道で飯を食っていけるのだろうか。お客様に接する仕事をせず、このまま間接部門に居続けてもいいのだろうか。仮にWebの仕事を続けるのであれば、いつまでもローカライズ部門にはいられないはずだが、他に居場所はあるのだろうか。そんなことを常に考えていた。
入社4年目に、所属長とのインタビューでキャリアパスに関して思っていることを正直に話したが、やはり若いうちにお客様に接する仕事をしておいた方がいいだろうと言われた。そして、所属長があるSE部門の社内公募を見つけてくれ、そこに応募することになった。面接の結果、異動が決まり、入社5年目を迎えた1997年4月、同期の後を追いかけるように、SEとしてのキャリアを歩み始めた。
投稿情報: |