1993年入社の同期は約450名。ホテルニューオータニ(東京都港区)で行なわれた入社式で一堂に会した後、製造開発部門は大和事業所(神奈川県大和市)へと移動した。セレモニーの後に配属先の先輩に連れられ、今度は築地事業所(東京都中央区)に移動した。そこで待ち構えていた先輩方に「(大阪)万博の年に生まれた子だよー」とびっくりされたのが、妙に印象的であった。
翌日から、長い新人研修が始まった。最初の1週間だけ、藤沢事業所(神奈川県藤沢市)で製造開発部門の研修に参加したが、翌週からは幕張事業所(千葉市美浜区)で営業/SE系の研修に参加した。製造開発部門の同期は、垢抜けない地味な雰囲気だったが、営業/SE系の同期は、口から生まれてきたのかというくらいよく喋る男子と、きらきらと輝いた女子が集う、とても華やかな雰囲気だった。
研修は営業/SE系の同期だけではなく、SE転籍者やアジア諸国のIBMからの出向者らも含む約250名が6クラスに分かれて、モニタの向こうで喋る講師の話を同時に聞く形式で行なわれた。各研修コースは数日から2週間くらいの単位で、研修コースが変わるたびにクラス替えがあったので、そのたびに飲み会が開かれた。社会人というより、完全に学生のノリだった。関東勤務以外の同期は、研修期間は幕張プリンスホテルに宿泊していたので、宿泊組は独身寮のような状態だった。ちなみに、幕張での最初の研修で同じクラスだったのが妻アスカで、当時、大阪事業所の勤務だった彼女も宿泊組のひとりであった。
一方、そんな学生のノリとは裏腹に、研修の内容は非常に密度が濃く、ハードなものであった。理系と文系の区別もなく、コンピュータの基礎知識とプレゼンの仕方を徹底的に叩き込まれた。知識の習得も大切だが、ロールプレイやチーム単位でのプレゼンも多く取り入れられ、今思えば実践的な内容であった。また、研修の最終日には必ず試験が行われ、最終日の朝のJR京葉線では、みんな受験生のように勉強していた。そして、配属先に戻ってからは研修報告のプレゼン準備に追われ、勉強とプレゼンを繰り返す日々であった。
入社1年目は、12月までこのような授業形式の研修が続いた。そして、年が明けて最後の新人研修であるSEスクールの準備が始まった。入社年度により内容は若干異なるが、1993年入社組は筆記試験と3泊4日の合宿で、合宿では配属先の部門で抱えている案件をベースに、講師が扮する架空の会社の企画部長と技術課長に案件の提案活動を行ない、契約を取れれば合格という内容であった。筆記試験も合宿も、いずれかで2回不合格になると、SE職には就けない規定になっていた。
準備には通常1ヶ月程度を要するが、特に合宿の資料作成は土日も続き、最後は終電続きになった。しかも、配属先はお客様の案件を担当する部署ではなく、一種の間接部門で現役SEがいなかったため、非常に苦労した。そもそもお客様案件など取り扱っていないので架空の案件をでっち上げるしかなかったが、その時点でまったくリアリティがなかったし、細かいことを先輩に質問しても答えてもらえないことが多かった。合宿前日に同じ築地事業所の同期の先輩SEに資料を見てもらったときには、資料の稚拙さにも驚かれ、契約形態の違いも理解できていない常識のなさにも驚かれた。
2月中旬に行なわれた合宿では、やはり苦労の連続だった。プレゼンをしてはボコボコに突っ込まれ、答えられないことばかり。新人だからというより、現場のSE的視点に欠けているが故の苦労だった。講師も自分の配属先が間接部門というのは知っており、これだから困るという雰囲気が漂っていた。技術課長へのプレゼンのときは、システムの導入と移行に関する説明をしたが、初っ端からすべてをへし折られるように突っ込まれ、配属先という自分ではどうしようもないことへの悔しさと、自分の能力のなさに、涙が溢れてしまった。技術課長に扮した講師は、一瞬、ロールプレイから外れ、評価はいいのだが精神的に弱いと指摘をくれた。こんな調子なので、2泊目も3泊目も寝たのは明け方3時であった。
結果的にはどうにか合格でき、SEの資格を得ることができた。評価も参加者20数名中7位だったので、悪くはなかった。ただ、SEを志望して入社したにもかかわらず、間接部門に配属されたことに対し、この後も長く葛藤することになる。
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