次の会社が決まらないまま、2001年2月を迎えた。ひょんなことから、前月にタイタス時代の元上司が勤めるベンチャーキャピタルにお邪魔し、ネットワークの調査のお手伝いしたのがきっかけで、2月だけコンサルタント契約を結び、週に2-3日だけ出社してITインフラの改善を請け負った。空いてる日は、人生の休暇のつもりで、毎週のように、今はなきSSAWSに行っては、スキーを楽しんだ。
日本IBMとは、2月に異例とも言える4回目の面接を行なうことになった。履歴書に書いた「年収は現状維持を希望」というのが人事で引っかかっていた上、タイタスで過ごした1年強は評価に値しないし、IBMでこの先ずっと働きたいという意思が信じられないと言われた。年収については、絶対死守というわけではなかったので、いくら出してくれるのかと聞いたのだが、具体的な金額の提示はなく、IBMと交渉すること自体が生意気だという風に取られてしまった。タイタスに転職するとき、勝手な思い込みで年収は下がるものと決めつけて希望額を提示してしまった反省を活かし、現状維持を希望と書いたのが仇になってしまった。希望年収については、日本IBMを紹介してくれた元上司からも「福利厚生とか他の条件も考えろ」と忠告をいただいたのだが、それをうまく活かせなかった。
そして、2月中旬、日本IBMから不採用通知が届いた。自分は無職なんだという現実を突き付けられた瞬間である。一方、古巣である日本IBMとの面接を重ねる度、自分の経歴ではもう大企業には戻れないなと感じ始めていた。学生時代から、いつかは起業したいと漠然と思っていたこともあり、個人事業主としての道を歩み始め、3月以降もベンチャーキャピタルで社内SEとしてお世話になることになった。週に3日では生活にならないので、ベンチャーキャピタルの出資先を紹介してもらい、5月からは2社を掛け持ちし始めた。
出資する側と出資される側の両方の立場を同時に見ることができ、非常にいい経験になった。外資系のベンチャーキャピタルだったので、10名程度の日本オフィスの半数は外国人で、日常的に英会話をする機会があったのも、いい勉強になった。エンジニアの視点で会社を評価する機会をもらったり、いいビジネスはないかと日常的に考えたりしたのも、いい刺激になった。
出資先の会社でも、市場が必要としていると思われるサービスや商品を自分たちで開発し、その善し悪しをお客様に問うという、商売の原点のようなものを見ることができた。特に興味ある業種ではなかったが、社長の商売の匂いを嗅ぎ取る嗅覚の良さと営業手法に関しては、天才的なものを感じた。この社長が実践するセミナー営業手法は、今でも非常に参考になり、つい先日も著書を拝読したばかりである。
もちろん、いいことばかりではなかった。個人事業主というと響きがいいかもしれないが、いつでもクビ切りの対象になる弱い立場だったし、仕事を進める上で何の決定権もなく、実に中途半端な存在だった。実際、ベンチャーキャピタルの日本法人のトップが交代し、自分を引っ張ってくれたタイタスの元上司が辞めた後は、後ろ盾となる人もいなくなり、結局1年でクビになった。
その後、ベンチャーキャピタルの出資先の会社にお願いし、週5日の勤務にしてもらったが、会社は創業以来の赤字続き。社長は営業としては天才肌だが、失礼ながら社長業はあまり上手とは言えず、組織としてあまりに未熟だし、いつ倒産してもおかしくない状態で、社内の雰囲気も次第に悪くなっていった。
自分自身の仕事もWebマスターの仕事には程遠く、嫌で辞めたSEの仕事で食いつなぐ毎日。通信業界との接点は、何もない。希望の通信業界以外でも、少しでも興味を持った会社なら応募はしてみたが、書類選考の段階で落とされ続けた。何をしても進みたい方向に近付かず、むしろ離れていってる気すらした。まさに、袋小路に入り込んだ状態である。この頃から友人に会うのが嫌になり、周りの人に「今、(仕事は)何してるの?」と聞かれるのが苦痛でたまらなくなった。
そんなある日、1通のメールが届く。タイタスを辞めてから2年余りが経った、2003年4月の出来事だ。このメールが、現在勤務している会社へとつながるのである。
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