1999年9月1日、通い慣れた箱崎ではなく、表参道にいた。転職先はタイタス・コミュニケーションズという外資系のCATV会社で、首都圏と札幌で6局を運営する日本では新しいタイプのCATV会社であった。当時のCATV事業は法規制で1地域1事業者に限定されており、地域密着型の小資本の会社が乱立していたため、日本では複数の局を統括して運営する会社が数社しかなく、タイタスは創立5年目にして既に業界2位の規模を誇っていた。
また、サービスも従来の多チャンネルTV放送だけではなく、電話とインターネットという通信サービスも提供する最先端の会社であった。当時はまだISDN全盛期であり、ADSLは日本に上陸前だった。学生時代に研究していたブロードバンドがいよいよ一般家庭に普及し始める、その瞬間を通信業界で立ち会えたのは、とても幸せなことだった。
タイタスの社員数は約500名で、社員数が約20,000名もいた日本IBMに比べれば、比較にならないほど小さな会社だった。初出社の日、社員証の写真を撮るために近所の写真屋に連れられたときには、あぁ小さな会社に入ったんだなと、軽いカルチャーショックを受けたのを今でも鮮明に覚えている。何しろ、日本IBMなら主な事業所に数千名を収容し、社員証の撮影設備やカフェテリアがあるのはもちろん、内科医も常駐していたほどだ。
しかし、タイタスの業績は右肩上がりで成長し続けており、まだ赤字ではあったものの、局によっては単月度黒字が見えてきて、とても勢いがあった。同時に社員数も、ものすごい勢いで増えていた。9月入社も約20名ほどいたが、その後も毎月、中途採用で入社する社員が続いた。
会社の目標も極めてシンプルで、まずは加入者を増やすこと。そして、1加入者あたりの契約サービスを1サービスより2サービス、2サービスより3サービスと増やすこと。そのシンプルな目標を達成するため、全社員が同じ方向を向いて突き進んでいた。
配属されたのはインターネット事業部。TV、電話、インターネットの3サービスのうち、インターネット接続サービスの内容を企画する部門である。そこで、Webマスターとして、自社のWebサイトの管理者を務めた。既に2名のWebデザイナーがいて、2つのWebサイトの更新自体は問題なくできていたが、専任のWebマスターがいなかったため、自分が専任のWebマスターとして採用されたのだった。
ちなみに、直属の上司は日本語の流暢なアメリカ人。社長も日本語の流暢なアメリカ人だったが、日本通のアメリカ人が多く在籍していたのには、本当に驚いた。IBMのアメリカ人は、英語以外の言葉を学ぼうとしないし、自国の文化を世界に押し付ける横柄な人ばかりだったので、いい意味でのカルチャーショックだった。
入社時の研修の後、数日で現状分析をし、改善策を考えた。最初に手を付けたのは、インターネット接続サービスの商品説明ページ。自分なりの言い回しで、CATVインターネットのよさを表現してみた。また、ほぼ同時期に、近隣のCATV会社4社にインターネット接続サービスをOEM供給する発表記事の作成依頼を受け、並行してページ作成を進めた。こんな調子で、最初の1ヶ月はあっという間に過ぎていった。
そして、驚くことに入社してわずか1ヶ月で、いきなり社長とランチをすることになった。OEM供給の件にかかわった人たちがランチに招待され、その1人として参加することになったのだが、あまりの社長との距離の近さに、本当にびっくりした。IBMに当てはめれば事業部長とランチという感じだが、あり得ない話である。でも、タイタスのアメリカ人社長は、定期的に社員と直接対話する場を設け、社内向けの業績発表のときも、必ず各部門に対して労いの言葉をかけてくれた。また、仕事ばかりでなく、家族や恋人と過ごす時間を大切にしなさいと繰り返し説いていた。社員に対する行動や発言には共感することが多く、自分にとっては非常に心地いい会社であった。まだ20代の若造だったので、そばで仕事ぶりを見た訳ではないが、後にも先にも彼ほどお手本にしたいと思った社長はいない。
その後は、徐々にいろんな部署の人たちと関わりを持つようになり、社内でも自分の存在がいろんな人に知られるようになっていった。同時に、Webの持つ影響力の大きさも実感し、それ故にやりがいも大きかった。IBMにいた頃は、会社が大き過ぎて、自分の会社への貢献度が全くわからなかったが、タイタスでは周りの人たちと一緒に自らの手で会社を動かしているという実感があった。
自分への評価は、そのまま給与に反映され、転職で下がった年収も、数ヶ月で元に戻った。広報の紹介で、転職雑誌の特集にも載せていただき、転職を心配していた両親にも、きちんと活躍している姿を見せることができた。もちろん、嫌な仕事はあったし、苦手な人もいたが、そんなものを吹き飛ばすほど、やりがいのある仕事で、いい人たちに囲まれた。タイタス時代に知り合った人たちとは、未だにつながりがあり、自分にとって大切な宝物である。
しかし、そんな夢のような日は、ある日突然になくなる。入社して7ヶ月目の2000年3月、ある新聞の朝刊に業界1位の会社との合併の記事が載る。その時点では単なる憶測記事だったが、社内に動揺が広がり、いろんな噂話が駆け巡った。それから間もなく、筆頭株主がMicrosoftに代わり、そして、合併が正式に発表された。主要な役職を占めていたアメリカ人は、次の条件がいつまで経っても提示されないという理由で次々と辞めていき、直属の上司だったアメリカ人も8月にタイタスを去っていった。まだ、大半の社員が残っている状態で、人事部長までもが辞めてしまった時は、何ともやりきれない気持ちだった。この頃には「(転職先は)決まった?」というのが挨拶代わりだった。
こうなると、タイタス側は合併相手と対等に交渉できる役職の人がいないため、何もかもが相手の言いなり状態になってしまった。明らかにタイタスの方がよいと自負していたサービスも、相手側のブランド名に変更され、サービス内容も相手側に合わせることになった。また、合併後に全員の椅子が用意されていた訳ではなく、選別を兼ねたインタビューが行なわれた。幸い、相手側に専任のWebマスターがいなかった上、何名かの先輩が自分の名前を出してくれたこともあり、椅子は確保してもらえたが、企業文化が正反対の会社への転籍は、全く考えられなかった。リスクを背負ってIBMを離れたのに、自分が選んだ訳じゃない会社を押し付けられたような気もした。
2000年10月、大半の人たちが合併相手のオフィスに勤務先が変わっていった。ちょうど同じ頃、IBM時代の上司に相談したところ、日本IBMでもWebマスターを募集している部署があるから戻ってこないかと、担当部門に話をつないでもらえた。それから日本IBMとは何度か面接を行なうが、11月末に、正式な内定をもらわないまま、会社には退職の意思表明をする。これ以上延ばすと、どうしても合併先の会社での業務をすることになるからだった。
2000年12月には、合併後に副社長を務めていたタイタスの社長も、ついに辞任を表明した。自分が選んだ会社が、なくなった瞬間でもある。そして、2001年1月、日本IBMから内定をもらわないままの状態で、タイタスを退職した。在籍期間は、わずか1年5ヶ月だった。光り輝いていた時代は、一瞬にして終わった。
そして、ここから長い長い暗闇が始まった。
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